人を知るより、自分を知ることの難しさ

思考の土台

人のことは、わりとよく見えるものだと思う。

この人はこういうときに迷う。この人はこの言葉に反応する。
この人は、本当は不安なのに強がっている。——長く事業をやっていると、そういうことが、なんとなくわかるようになってくる。

けれど、自分のこととなると、途端に見えなくなる。

そのことを、あるとき思い知らされた出来事があった。


古い中国の言葉に、こういうものがある。

知人者智、自知者明。
(人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり)

老子の『道徳経』第三十三章にある一節だ。人のことがわかるのは智恵である。
けれど、自分のことがわかるのは、それよりも一段深いところにある「明」だという。

智(ち)と明(めい)。
似ているようで、老子はこの二つを、はっきりと分けて置いている。


この事業を始める前、私は会社員として働きながら、お客様や周りの人にはよく健康の話をしていた。睡眠は大事だとか、無理をすると必ずどこかに出るとか、当たり前のことを、当たり前のように話していたと思う。

けれど、自分がどれだけ働き続けているか、どれだけ休めていないかには、ほとんど注意を払っていなかった。忙しさは誰にでもあるものだと思っていたし、今日一日を乗り切ることで頭がいっぱいだった。

ある日、朝起きた時点で「今日はもう無理だ」と思ったのに、それでも予定を動かさなかった。

体調の異変に気づいたのは、もっとあとになってからだった。振り返れば、兆候はいくつもあった。それでも、目の前の仕事を優先し続けているうちに、自分の状態を見るという作業そのものを、いつのまにか後回しにしていた。

人には「休んだ方がいい」と言えていたのに、自分がどれだけ削れているかは、自分では見えていなかった。

あのとき、自分だけは例外だと思っていたのかもしれない。

そのことに向き合ったのが、今この仕事をしている理由のひとつでもある。


「知人者智、自知者明」という言葉を知ったのは、ずっとあとになってからだった。読んだ瞬間、あの頃のことが浮かんだ。

人に何かを伝える目と、自分を見る目は、別のものなのだと思う。片方が育っているからといって、もう片方も育っているとは限らない。むしろ、人に語ることに慣れているときほど、自分自身への目は、逆に鈍くなっていたのかもしれない。

今も、自分のことがよくわかっているとは言えない。ただ、「これくらい大丈夫」と思っている自分を、一度疑ってみる癖はついた。

それだけで、十分だと思っている。


山門良子
株式会社サンテ・フローラ 代表